column

#03 “お客さんをゼロにする”フェスティバルを作りたかった〈前編〉
2025.02.14

#03 “お客さんをゼロにする”フェスティバルを作りたかった〈前編〉
by 坂口修一郎

noru journalがおくるPodcast番組『窓がうごく(仮)』では、旅すること、移動することが暮らしに根付いている人々を迎え、さまざまな話を伺っていきます。今回のゲストは、『プレイスメイキング』をテーマにしたディレクションを多数手掛ける〈BAGN Inc.〉代表の坂口修一郎さん。あるときはステージに立つトランペッターとして、またあるときは鹿児島ローカルから発信されるローカルフェスティバル〈GOOD NEIGHBORS JAMBOREE〉の主宰者として、複数の顔を持ちます。前編では、東京と鹿児島を行き来しながら15年間途絶えることなく続けた〈GOOD NEIGHBORS JAMBOREE〉の始まりと終わりについて。

惜しまれながら、昨年幕を閉じたこのフェスティバルは、なぜ“コミュニティ・フェスティバル”と呼ばれ、多くのファンを集めたのか。

ここでは音声コンテンをまるッとテキスト化してお送りしていきます。

「Podcast:窓がうごく」記事一覧

» 窓がうごく

自分の居場所はここではないと思っていた

村松亮(以下 村松):さて本日のゲストは音楽家でありながら街角の広場から商業施設、公園などに新しい価値を見出すディレクションカンパニー〈BAGN Inc.〉代表でもある坂口修一郎さんにお越しいただきました。よろしくお願いします。

坂口修一郎(以下 坂口):はい、よろしくお願いします。

村松:坂口さんといえば、僕の世代はやっぱり〈無国籍楽団Double Famous〉のトランペッターとして認識して人もわりと多いと思うんですけども。最近では鹿児島ローカルから発信されるコミュニティフェスティバル〈GOOD NEIGHBORS JAMBOREE〉の主宰者としてメディアに出ることも多いと思います。そもそも、自分では何屋って答えているんですか?

坂口:冒頭から1番答えづらい質問(笑) 。何屋なんでしょうね。いつも困るんですけど、最近では“プレイスメイキング”と自分たちの仕事を呼んでいるので、プレスメーカーと言うようにしていますね。

村松:ここで簡単に坂口さんのプロフィールを紹介します。1971年生まれ鹿児島県出身。1993年に〈無国籍楽団Double Famous〉を結成。トランペット、トロンボーン、パーカッションを担当。音楽活動の一方で、2004年〈代官山 UNIT〉設立に参加。2010年から故郷である鹿児島でクロスカルチャーな野外イベント〈GOOD NEIGHBORS JAMBOREE〉を主催。東日本大震災後には緊急支援で来日したジェーン・バーキンのサポートバンドをオーガナイズし、ワールドツアーにも参加。現在はランドスケーププロダクツ内にディレクションカンパニー〈BAGN Inc.〉を設立。ジャンルを越境したさまざまなイベントのプロデュースを多数手がけています。僕が初めて会ったのは〈代官山 UNIT〉の坂口さんでした。

坂口:そうですね。だからもう20年ぐらい前ってことだよね。2004年にUNITが立ち上がっているので。

村松:そっかそっか。

坂口:20年までいかないけど、そんなもん。

村松:そうですね。20年前ですね。

坂口:20年!

村松:あんまり坂口さん印象変わらないですけど。

坂口:お互いそうだと思うけど(笑)。

村松:僕、忘れていたんですけど、ジェーン・バーキンさんのサポートバンドで確かにワールドツアーへ行ってましたね。

坂口:そうそう。2012年から2年ぐらいやっていたんだけど、それももう10年以上前の話なので、最近はプロフィールに書いてないですよ。

村松:結構古いプロフィールを僕が引っ張ってきたんだな。面白いプロフィールですよね。

坂口:何屋って、よくわからないでしょ(笑)。

村松:2010年に〈GOOD NEIGHBORS JAMBOREE〉を始めたんですね。

坂口:そう。震災の1年前に始めました。

村松:ちょうどその頃、僕は坂口さんの部下だった時代があって。

坂口:そうね、一瞬ね。

村松:だからちょうど僕が坂口さんと働いている時に〈GOOD NEIGHBORS JAMBOREE〉を仕込んでいて、その姿を見ていましたよ。

坂口:そうね。2足のわらじから3足のわらじへ。まさに3足目を履き始めていたね。

村松:当時、坂口さんは〈BAGN〉を立ち上げ前で、会社員として働きながら、兼業ミュージシャンみたいな形で。当時はまだ〈Double Famous〉も活発に活動していましたね。

坂口:フジロックに出させてもらったり、日本全国の主要のフェスティバルに出ていた頃だね。

村松:で、火曜の夜! 火曜の夜で合ってますよね?

坂口:そう、火曜の夜。

村松:火曜の夜はバンド練習があるから早く上がる。結構ギリギリまでやっていて、「遅刻だ〜。」とか言いながらで会社を出ている姿が印象的でした。

坂口:そうね。会社に楽器担いで行って、そのまま行くみたいなね。そんな感じだった。

村松:そんな時代もありながら、その後、僕は会社を辞めて別のところに行ってるんですけど。関係性は続きながら〈GOOD NEIGHBORS JAMBOREE〉を会社員時代に立ち上げ、さらにそこから〈BAGN〉を立ち上げる流れになっていったと思います。そもそも会社員時代、すごく忙しい時期だったと思いますけど、なんで鹿児島でフェスをやろうって思ったんですか?

引用:GOOD NEIGHBORS JAMBOREE 2024

坂口:当時は会社に属していて、オフィスは中目黒にあって、その後、青山に移ったんですけど、なんだろうな。東京のド真ん中みたいな仕事をしていたと思う。東京に自分の家もあったし、土地もあった。何年も東京と神奈川、あちこちに住んでいたけど、その時点で20年ぐらい東京にいて、土地も買って、家も買っているけど、自分の土地だという感覚を持てなくて。鹿児島で高校を卒業してすぐ東京に出てきたから、東京の生活の方が長くなっちゃって。なんだけど、地元に戻ると、ここは自分の土地だって感覚があった。地元鹿児島では選挙権も持ったことなかったのに。だから、このままずっと東京にいるのかなってどこかで思ってた。会社の仕事もすごく東京っぽい仕事だったじゃない? それが最先端だったかどうかは別としても、そこに違和感があって、このままずっと東京に居続けるのかなって、自分の居場所は本当にここなんだろうかって、すごく考えてた時期だった。

村松:当時いくつですか?

坂口:35、6じゃない?

村松:ちゃんと聞いたのは初めてかもしれないですね。

坂口:そうかもね。

村松:ちょっと意外ですね。

坂口:あ、意外?

村松:うん。ローカルで面白いことをやろうとか、そういうことがきっかけなのかと思いきや。以外にずっと東京にいながらもどこかでここが自分の場所というか、ホームじゃないみたいな感覚があったってことですよね。

坂口:そうそう。それはずっとあって、ホームじゃないから心地よかった時代もある。10代の頃とかは、ホームだから息苦しかった。それで東京に出てきたでしょ。それで東京に来て息苦しくはないんだけど、自分の土地って言う感覚が全く持てなかった。このまま50、60、70、80までここに住み続けるイメージがちょっと揺らいできたというか。別に鹿児島じゃなきゃ、という感じでもなかった。他の地方でもよかったし、長野もそれこそ1度考えたし、鎌倉の方とか逗子とか、少し東京から離れるのもありかなと。いろいろ考えたよね。なんだけど、どこもフィットしなかったんだよね。

村松:震災後では、東京を離れて、何か違う場所に拠点を持つだとか、身を移すっていうのはごく一般的なことになったじゃないですか。でも、それ以前の話ですよね?

坂口:さっき紹介してもらった〈Double Famous〉ってバンドが93年からその時点で15年ぐらい活動していて。アルバムも5枚、6枚出して、いろんなフェスティバルも出させてもらったりと、あちこちツアーに行く。そうすると、いろんな土地の良さが見えてくるでしょ。東京はもう何でもあるし、毎日お祭りやっているような街だし。

村松:確かに。当時は特に。

坂口:リーマンショックの前だった2008年ぐらいまでは、いろんなイベントがもうバンバカやっているみたいな状況で。もう1回バブルが来ちゃうんじゃないか、そんな雰囲気がその頃はあって。これ以上ここで自分が何かやるというイメージが湧かなかったし、プレスメイキングといった場づくりみたいなものは、どこかでやらないといけないっていう感じがあったんです。なぜかというと、そういう違和感を感じている人は、自分以外でも多分いるし、自分がそもそも思っていたわけで。居心地は悪くないけど、なんか違うみたいなのがあるから、この“なんか”はなんだろうなぁと思ってた。それでウロウロし始めた。各地を見て回っているうちに、息苦しくなって出てきた自分の地元で、その当時見えてなかったものがいっぱいあったなぁって気づくようにもなった。ちょうど同時多発的に〈relax〉*注1 の編集長をやっていた岡本仁さんとか、一緒に会社をやってる〈ランドスケーププロダクツ〉*注2 の中原慎一郎くんとか、そういう人たちも鹿児島に通い始めて。たまたま同時期にね。

*注1 日本の男性向け雑誌。マガジンハウスより1996年(平成8年)に創刊され、2006年9月号をもって休刊した。
*注2 家具の製造販売のみならず、自邸や店舗などの内装リフォームやリノベーションまでをも手掛けている会社。

“良き隣人であれ” 民主的な場づくりを目指した

村松:岡本さんはなんで鹿児島通いを始めたんですかね。

坂口:当時岡本さんはマガジンハウスをやめたばかりの頃で、かたやマガジンハウスもそれこそ東京から情報を発信する先端じゃないですか。多分だけど、岡本さんも東京に何かの違和感を感じていたんじゃないかな。たまたま僕もそうだし、そういう知り合いが少しずつ増えて。なんか鹿児島が面白そうだって、直感みたいなものだと思うんだけどね。だから鹿児島にいると、なんか岡本さんがいる。そんな感じの流れになっていって、色々考えたんだけど、鹿児島で何かやるのが自然の流れかなって

村松:グッドネイバーズという言葉自体は印象的ですけど、これは会場を見つける前にタイトルを決めていたんですか?

坂口:えーっと、どっちが先だったかな。場所は見つけていたのかな。山の中にある廃校。僕は鹿児島の出身者ではあるけど、高校生で1回外に出ちゃってるから、それからほとんど帰ってなくて、土地勘もあんまりなかったですよね。なので、東京でワイワイしたイベントをやりながら、時間を見つけては帰って、とにかくクルマに乗ってウロウロウロウロ。だんだん価値観の合う仲間もできて、帰るたびに彼らに教えてもらってあっちこっちを見て回った。ここは出来ない、ここはどうか、っていうことをやり始めたんです。

村松:なんとなく固まりつつあるところで、タイトルのヒントをくれたのは先ほど話に出てきた編集者の岡本さんだったんですよね。フェスの名付け親ということですけど。これはお願いしたんですか?

坂口:お願いしたというより、どういうことをやりたいのかっていうのを一生懸命話したわけ。岡本さんに。

村松:当時の岡本さんと坂口さんの関係性はどんな関係性だったんですか? まだ何か一緒にやるっていうことが決まってない…?

坂口:全然。決まっていない。岡本さんはマガジンハウスをやめて、ランドスケーププロダクツにいて。

村松:あ、もう入っていた頃ですね?

坂口:ちょうど入ったばっかりの時だった。

村松:なるほど。

坂口:それで、なかなかネーミングが決まらなくて。だけどやりたいことはこういうことだと明確にあった。東京や中央で活躍している人をたくさん呼んで、キラボシを10個、20個並べるようなフェスティバルではなくて地元の人たちが面白いことをやって、それを外の人にちゃんと見てもらえるようなものにしようと思ってた。自分は音楽出身ではあるけれど、音楽だけというのもどこか違和感があった。せっかくその土地に行ったのに、美味しいものも食べずに帰るとか、その土地ならではのものに出会わずに帰るのはもったいない。地域で面白い活動をしている人もいっぱいいるわけで、クラフト作家やデザイナー、絵描きさんとかね。鹿児島にそういう人がたくさんいることがだんだんわかってきた。むしろ、そういう人たちが演奏者と同じ目線で、フラットに会場にいたらいいなと思ったんだよね。普通、フェスってヘッドライナーがいて、だんだんネームバリューが下がっていき、前座がある感じになるけれど、前座もヘッドライナーも関係ないし、空腹を満たすためだけの食事でもなくて、シェフはシェフとしてヘッドライナーだし、バーティカルな関係性じゃなくて、ホリゾンタルな関係性で、みんなが平列でいるような場所が理想だなと思っていたんです。そういうことやりたいんですよねって言ったら、「それはなんかグッドネイバーって感じだね」って言われたんですよ。

村松:ピンときたんですね。

坂口:そうそう。当時は“夏フェス”みたいな漠然としながらイメージやスタイルが定着してきていたけど、当時のフェスにあったようなネームバリューで人を呼ぶという方法ではなくて、かつて子どもの頃に楽しみで行っていたお祭りのように人が集められないかと思った。お祭りには別に有名な人が来るわけではないし、盆踊りにしても、別に有名な人が太鼓を叩いていたわけじゃない。ただそのお祭りに行きたいから行く。マーケティングのルーティンの中にあるフェスではなくて、お祭りに近い。そうしたらお祭り騒ぎって意味の「ジャンボリー」っていうのがいいんじゃない?っていうことになった。

村松:人をたくさん呼ぶようなヘッドライナーもなく、かつ場所も鹿児島の市内から離れた山奥で、人集めとか集客には不安はなかったんですか? 

坂口:いや、不安しかなかったです(笑)。

村松:ですよね(笑)。

坂口:うん。そもそも僕は当時、基本的には東京にいて、めちゃめちゃ忙しかったから準備する時間もまま成らない状況でもあったしね。金曜日の最終便で鹿児島に飛んで、金曜の夜から土曜日、日曜日ってもう人に会いまくったり場所みたりとか、打ち合わせもして、月曜の朝一で戻ってきて、空港から直接オフィスに行って仕事をしてたから。

村松:何年ぐらい準備していました?

坂口:1年…ぐらい準備してたかもしれない。

村松:当時はやりたいことを話して共感してくれる人とか、理解してくれる人は多かったんですか?

坂口:いや、そんなことないと思う。みんなやったことないし、関わってくれる多くの人がボランティアだし、だけどしょっちゅう帰ってくるし、なんか一生懸命やろうとしているから手伝ってあげようかなみたいな。大丈夫かな、あの人って感じじゃない?(笑)。


撮影:村松亮

村松:いざそれで不安がある中での初回の手応えはどうだったんですか?

坂口:人数も少なかったし、最初から10回はやらなきゃいけないと思ってた。10年はやろうと思っていたんです。1回2回だとそんなのあったね、で終わっちゃうから。そうすると10回続けるためには長距離マラソンになるので、いきなり全力疾走しちゃうと絶対に続かない。なので小さく始めてってことを意識したんです。続けられるような体制にしようと思った。であれば、1回目は規模も小さかったし、よかったんじゃないかな。地元の人たちのパフォーマンスをできるだけ良い形で届けたいなと思っていた中で、しょうぶ学園〉という鹿児島の知的障害のある人たちの支援施設で、アートを中心に活動してるところの楽団に出てもらったんだけど、彼らのパフォーマンスは誰も見たことなかったんです。しょうぶ学園の楽団のことを、ほぼ誰も。1回目は500人くらいの来場者だったんだけど、みんなはじめは障害者のバンドね、みたいに油断していたんじゃないかな。結構ゴロゴロしながら見ていたんですけど、始まってみたら、もうトランス状態になっちゃって。結果、スタンディングオベーションに。別に泣きのメロディーとかそういう歌詞とかがあるわけでもないのに、泣いちゃう人もいたくらい、盛り上がっちゃった。

村松:1回目で?

坂口:1回目で。そういう意味ではすごく手答えはあったというか。

村松:その後〈GOOD NEIGHBORS JAMBOREE〉と言えば、しょうぶ学園みたいなことになりましたもんね

坂口:それまでは基本的には障害のある人たちのイベントってあるから、公会堂みたいところでやるような。そういうのがメインだったんだけど、ちゃんとお金を払って見にくる、わりと大きいステージでやるのは彼らも初めてだったんで。

村松:〈GOOD NEIGHBORS JAMBOREE〉でいうと、子どもアナウンサーだとか、いくつか他のフェスでは見られないコンテンツがあると思うんですけど、初回から仕込んでいたのか、やりながらつくっていったのかっていうと、どうなんですか?

坂口:それはやりながらだんだんできてきたっていう感じ。基本的な考え方としてはみんなフラットで、お客さんをゼロにしようっていうのは言っていた。お客さん扱いしないというか。来た人もみんな何かしらものづくりするでもいいし、何か表現して帰っていく、そんなことができたらいいなと思っていて。で、それが何万人レベルだとちょっと難しいけど、2,000人ぐらいのレベルであれば全員ってことはないだろうけど何かしら手を動かして参加できるフックをつくっておこうっていう感じだった。小学生以下はずっと初回から無料にしていたから、子どもたちもいっぱい来る。彼らに、何をしてもらおうかってことで、アナウンスをしてもらい始めたのがきっかけだね。フェスに関わるものを基本的には全部DIYでやろう、自分たちで手を動かしてつくれるものは全部自分たちでやろうという考え方もならではだったかもしれない。どうしてもできないもの、音響機材持ってくるとかそういうのはプロじゃないと出来ないからプロに任せるけど。その他にはその時だけツリーハウスを会場内に作ったりだとか、関わるみんなが得意なものを持ち寄る。その時、その場に集まった人だけでできることを考えようっていうことはみんなに言ってきたかな。

村松:子どもアナウンサーに選ばれた子が事前にテレビ局のアナウンサーにちょっと習ったりしていますよね? その本気度が印象的でしたね。

坂口:そうそう。その日ワークショップをやって、ちゃんと原稿用意して、自分の喋ることとかを練習して、それでブースに立つ。

村松:先ほどの「お客さんをゼロにしよう」だとか「みんなで作ろう」っていうのは、当時誰かがやっていたわけじゃないですもんね?

坂口:それはないですね。

村松:なんでそれをやりたいと思ったんですか?

坂口:そもそも東京でいろんなイベントをみたり、やっていると、VIPルームってあるじゃないですか。あれがね、すごい苦手だった。誰かを特別扱いするみたいやつ。自分が特別扱いされた時も居心地が悪いし、誰かをVIP待遇しなきゃいけないっていうのも何か居心地が悪い。大事にしなきゃいけない人もいるんだけど、その日パフォーマンスをする人とかね。それはリスペクトがあるからそうだけど、そのための楽屋とかがあるわけでVIPルームではない。何もしてないのにVIPルームに通すとか、VIP扱いするとか、そういうのがすごく嫌だったかな。だから誰もVIP扱いしないということは、全員がVIPだと思っていたんで。そういうふうに扱えるようにしたい。特権的な誰かがいるっていような場づくりはしたくない。だから民主的にやりたいというのはずっと思っていた。

村松:当時、音楽家として、かたやイベンターとして、東京のど真ん中で場づくりをしていて、これは音楽を楽しむ理想的な場所ではないなっていうところの強烈なカウンターで〈GOOD NEIGHBORS JAMBOREE〉が生み出された、そんな理解ですね。

坂口:そうそうそう。それはそうだと思います。

村松:面白いですね! 1年2年と続けていくとメディアに取り上げられたり、いろんなチームが視察に行ったり、そんなふうになってきましたよね。

坂口:そう。やっている会場っていうのが鹿児島市内からは約1時間ぐらい行ったところなんだけど、公共交通機関はないし、道はあるけどっていうような場所で。会場にある唯一の建物は、昭和8年に建てられた廃校でしょ。廃校になってからその時点でもう30年ぐらい経っていたんで、ほぼ空き地。山の中の。学校なので水道は通ってるし、トイレもあるし電気も通ってはいるけれど、ほとんど鹿児島の人も誰も知らないような場所だった。そんなところで、2,000人ぐらい集めて何かやっている人がいるってことで見に来る人が増えたっていう。


撮影:村松亮

村松:何が面白がられたんですかね?

坂口:東京でやっていたら普通でしょ? 2,000人のイベントなんて全然どうってことないじゃないですか。普通のホールでも2,000人3,000人、入るところなんていっぱいあるから。珍しくもなんともないけど、鹿児島の日本の本土最南端の、しかも山の中で最寄りのバス停から徒歩60分みたいな世界で。なんでこんなところで何かやっているのかと。だけど別に世の中に背を向けたい、カウンターとは言ってもヒッピーのレイブとかそういうことでもないし(笑)。

村松:ですね(笑)。

坂口:それはなんだろうって多分思われたのかなって。思った側の気持ちはちょっと僕にはわからないけど、でもそういうところがあったんじゃないかなと思います。

何かやめることは、また新しい何かが生まれるきっかけになる

村松:〈GOOD NEIGHBORS JAMBOREE〉が鹿児島の山奥の森の中で始まって、もちろんそれを面白がってファンがついていったと思うんですけど、地域にとってはどんなものをもたらしたりしましたか?

坂口:いろんなものがあるんで、いろんな切り口で話せると思うけど、今回移動が1つテーマでしょ? なので、もたらしたものの1つでいうと、これは鹿児島の人に限らないけれど街の人って、そもそもあまり移動しないんですよ。日本国民全体のうち、約4分の1の人が首都圏に住んでいて、つまり1億2,000万人のうち、3,000万人くらいが都市部に住んでいる。鹿児島も160万人の県民の内、60万人は鹿児島市に住んでいる。鹿児島市の周りの街にも数十万人いるし、鹿児島も一極集中と言えます。これはジャンボリーを始めるときによく言われたことですけど、そんな山の中に市内の人は絶対に見に行かないから、危ないからやめた方がいいよって。だけど、フジロックに置き換えると、東京から苗場まで行くのにも4時間もかかるんですよ。それがたった1時間弱でこんなに自然があって、面白い場所があるとも考えられる。地方はどこでもそうですけど、みんな街には行くけど、街の人は自然の方にあまり行かない、移動もしないんです。少し移動したらこんなにも豊かなものがたくさんある、そんな価値観は〈GOOD NEIGHBORS JAMBOREE〉によって、この地域に生み出せたのかなって。それはすごく感じるんですよね。

村松:来場者で、鹿児島市内の割合は把握できているんですか?

坂口:おおよそ6割。オンラインでチケット売るようになってからは大体どこで買ってるかわかるんで、その比率で言うとそんな感じです。40%~45%ぐらいは県外。東京とか含めて。県外の人の方が、県外でわざわざ鹿児島のイベントまで来てみようって、移動の意味というか、移動の楽しさを知っている人たちだよね。鹿児島の人たちって本当にそんなに動かない。これは他の県もそうだと思うけど、一極集中がどこも進んでいて、そのフラクタルになってるだけなんで。 だから公共交通機関がないから、クルマで行くしかない。今まですごい身近にあった場所だけど、それに気づいてなかった鹿児島の人たちが移動して、行ってみようっていう流れが生まれたと思う。

村松:そんな中、去年ひと区切りというか、15年やり続けて一旦幕を閉じたわけですけど、どうして終わろうと思ったかというのと、どう終わらせようって思ったんですか?


撮影:村松亮

坂口:どうして終わろうと思ったかっていうと、15回やって、15年走り抜けて、役割が変化してきたのかなって思うんです。野外でのフェスティバルやマルシェも、この15年で鹿児島ですごく増えて、始めた頃にはなかったいいイベントも多い。そういう意味でも、ひとつのカルチャーをつくれたのかなと思いますし、街の人が自然に出ていくっていうある一定のマインドの変化も生み出せた。そもそも鹿児島の人は、会場である川辺という地域は観光地でも何でもない場所だから本当に行かない。だけど、足を運ぶきっかけにもなったし、名前も認知された。そういうことが15年も続けられたら、自分たちも何かできるかもしれないって思える人も出てくると思うんです。だから自分としてはそれなりの役割を果たしたと思うので、もう終わりにしようかなと。それで終わりにするのであれば、やっぱり最後のときは、サブタイトルにもなったHappy Endで、もう終わるよ!っていうことを前面に出してやりたかった。むしろ、できなくなってやめるのは絶対嫌だったので、やめるのであればやめるということに意味をちゃんと持たせてやめた方がいいなと思っていた。伝統的なお祭りや地域のお祭りって、やめたくてもやめられないものっていっぱいあるじゃないですか。そうじゃなくて、やめることで、何か次のことが生まれるっていうのも必要だから、それでやめてみようって。


引用:GOOD NEIGHBORS JAMBOREE 2024

村松:何かやめることで新しいものが生まれたり、次に繋がる何かは具体的にあったんですか?

坂口:直接繋がるものそんなにない。ないけど、目的を持ってやめることじゃなくて、ただ単に空き地を空き地に戻したっていう感じなので、そうするとこの場所を空いたから、どうぞご自由にっていう感じ。

村松:誰か次に、何かやりたい人がその空いた空間で新しいものを生み出すっていう。

坂口:実際に僕らが指示して何か始まったことはないけど、でも小規模のそういうイベントもどんどん同じ会場でやり始めているので、思った効果は出たんじゃないかなと思います。

村松:ひとつ始めるきっかけでもあった、自分の居場所を生み出すという部分では、達成というか満足いくような感じになったんですか?

坂口:結果コロナも経て、僕も東京の家を全部引き払って、それまで12,13年かかったけど、ようやく移住するっていう決断をできたのも、自分の土地だなと思っていながらずっと2拠点だったものが、ここでいいんじゃないかなって思えるようになったし、ここに居場所ができたなと思ったから移住することに自然となったと思うんです。

村松:地元でイベントを始めながらも、東京にも拠点があって、12、13年はずっと行き来してたわけじゃないですか。はじめてすぐに当時東京に感じていた自分の居場所ではない違和感は解消できたんですか?

坂口:落ち着いたなって感じはする。根なし草的なところではなくて、自分にはしっかり根を張る場所がある安心感っていうか、それはあるかな。 とくに震災のときに、やっぱり結構みんな不安になったじゃないですか。僕もそうだったし。でも震災の前から始めていたから救われたなっていう気持ちもあった。ずっと同じ場所にいるっていうのがどっちかっていうと苦手で。毎日同じ時間に行って、同じ時間に何かをするっていうのがあんまり得意じゃない。場所も気が向いたらどこかにウロウロしたいタイプだし、そういうスタイルに合ってたんで2拠点でずっといいと思ってた。だから今も2拠点は変わらなくて。前は3分の1鹿児島で、3分の2は東京だったけど、それがひっくり返っただけ。今は3分の2ぐらいは鹿児島にいて、やっぱり東京とか他の地域の仕事があるから、3分の1から、下手すると半分ぐらいはどっか出歩いている生活なので、変わってないと言えば変わってない。

村松:さて、そろそろお時間なので今週はここまで。少し今日の話をまとめてみると、坂口さんにとっては自分の居場所づくりでもあった〈GOOD NEIGHBORS JAMBOREE〉は、多くの人にとっても心地よい居場所にもなっていった。きっとそれが、〈GOOD NEIGHBORS JAMBOREE〉というフェスの根幹にあった価値で、「お客さんをゼロにする」というスローガンのもと、集まった人たちがフラットにつながれるような場所になっていった。坂口さんは、先ほど移動を生んだ、と言いましたけど、最後となった〈GOOD NEIGHBORS JAMBOREE〉の会場で売られていた卒業文集を読んで感じたことでもありましたけど、ある時まで空き地だった、何もなかった場所に、多くの人が通うようになった。行くじゃなくて通う。演奏者も出店者、来場者も、みながあの廃校の広場に通って、いつからかそこにはコミュニティみたいなものが生まれた。みんなの居場所になっていったんだな、と。今日はイベントの話ではありましたけど、移動しながら暮らすだとか、拠点を複数持つだとかのひとつのメリットって、自分の居場所を複数持てることだと思うんです。今日は坂口さんの居場所づくりの話でしたけど、ともすると、リスナーの方で自分の居場所に悩んでいるような方がいたら、何かの刺激になってくれたらいいなとも思いました。

今回のお話と関わりのある書籍『GOOD NEIGHBORS JAMBOREE ローカルの未来を照らすコミュニティ・フェスティバルの12年』や、最後の〈GOOD NEIGHBORS JAMBOREE〉の会場でも売られていて、僕もそこで買いましたけども、『The Happy End GOOD NEIGHBORS JAMBOREE』も、ぜひ読んでみてください。


左:「GOOD NEIGHBORS JAMBOREE ローカルの未来を照らすコミュニティ・フェスティバルの12年」/右:「The Happy End GOOD NEIGHBORS JAMBOREE」

(談)

坂口修一郎 (SHUICHIRO SAKAGUCHI)
1971年、鹿児島生まれ。東京発の無国籍楽団〈ダブルフェイマス〉のオリジナルメンバーとして活動する傍ら、株式会社BAGNを設立。日本各地でオープンスペースの空間プロデュースやイベント、フェスティバルなど、ジャンルや地域を越境しながら多くのプレイスメイキングを行う。2010年から野外イベント〈GOOD NEIGHBORS JAMBOREE〉を主宰するほか、鹿児島県南九州市の地域創生プロジェクト〈一般社団法人リバーバンク〉の代表理事、子どものための体験教育メディアを運営する〈マンモス・インク〉代表も兼任する。
I G:@shu_sakaguchi

photo by teppei hagiwara