Local2026.04.07NEW

#07 この町で新しい「粒」が芽吹く。御代田で繋ぎ、育てる料理家のこれから

長野県・御代田町。この地で暮らす人々の「移動時間」が、どのように日々の実践や思想を育てているのか。ローカルな土地の魅力を「移動」という視点から掘り起こしていく。

#07に登場するのは、御代田町に移り住み、『atelier Rom』という古民家のアトリエを開いた料理家・吉川雅恵さん。この場所で過ごした数年は、東京で料理の仕事を続けてきた彼女が、“自分に戻る”ための時間だったという。季節の移ろいとともに人がつながるこの町で、雅恵さんは今、新しい挑戦を始めようとしている。

「移動が育む暮らし 長野県・御代田編」記事一覧


東京から御代田へ 人生を動かしたひとつの誘い

雅恵さんは東京で料理家として活動していた。中目黒の外れで友人とカフェやケータリングのお店を営み、やがてふたりが子を授かると、店を閉じて社員食堂で調理をしたり、企業のレシピを開発するなど、料理に携わる日々を送っていた。そして長野と福岡にそれぞれ移住することを決意してユニットを休止させ、雅恵さんは御代田町で『atelier Rom』を立ち上げて活動を始めた。ちょうど日本列島が新型コロナウィルスによる混乱がピークに達していた、2020年の出来事だった。

東京時代の知り合いに、プロダクトデザイナーの熊野亘さんがいた。両親が御代田に移住した縁から何度も現地に足を運んでいた彼から、「すごくいいところだよ!」と、話を聞かされていたという。ある時、「理想の土地を見つけた」と、熊野さんから声をかけられた。

「いい場所を見つけたんだけど、ちょっと広い。何組かの家族で土地をシェアして、一緒に家を建てない?」

人生を変えるかもしれない大胆な提案に対して、悩みながらも「参加しよう」と決心した。

ちょうどそのころ、雅恵さんは婚姻関係にあった元夫と「この先、どんな暮らしをしよう?」と話し合っていた。夫婦にとって東京で暮らすことが最も合理的な選択である一方、雅恵さんは埼玉県の田舎育ち、元夫も群馬県出身ということから「自然に近いところで生活したい」という思いも抱いていた。

ふたりは熊野さんの誘いに応じ、御代田に家を持つことにした。当初は二拠点生活を想定した別宅を建てるつもりだった。しかし雅恵さんは料理家として、もっと生産者に近い場所で、自分の使う食材が生まれていく背景を掘り下げたいと考えていた。また人の親として、自然に囲まれた環境で子育てをしたいという願いも強まった。そこで「子どもが小学校に上がるタイミングで移住しよう」と決断した。

古民家との出会いが生んだ「atelier Rom」

旧中山道と県道137号線が交わる、かつての御代田の中心部だったという一角に佇む立派な古民家。移住したばかりの雅恵さんは、その家の隣地にあったシェアファームに参加していた。そしてある時、「素敵なお家だなあ」と思って見ていた家の主が引っ越すと知らされた。彼女はお弁当づくりやケータリングなどの仕事を進めるため、自宅以外の場所を必要としていた。実際のところ、ひとりで活動するにはアパートの一室を借りれば事足りた。けれど雅恵さんが御代田で取り組みたかったのは、料理だけではなく、衣食住のすべてに関わることだった。人が集い一緒に手を動かしたり、地域に根づいた生活の知恵を探求しながら、人と人とが関係性を深める。そのための場所として、単独で管理するにはちょっと広い古民家を借り上げて、『atelier Rom』を始動させた。

 

歴史を感じさせる広々とした畳の居間に、小さい子を連れた母親たちがストレスを感じることなく集まる。結婚や出産によってキャリアの停滞を余儀なくされる女性が、「ここがあるから、自分のやりたいことができる」と安心感を覚える。「これまでの人生をリセットして移住する人たちの新たな活動を後押しするコミュニティがあっていいはずだ」。雅恵さんはそう期待した。

町民が集い、関係を結ぶ場所に

彼女自身も移住者であり、御代田にやってきた当初は「誰とどこで知り合えばいいんだろ?友だちってどうやってつくるんだっけ?」という想定外の戸惑いを感じた。アトリエを始めたころはコロナ禍にあり、人と人が集まること自体が叶わなかった。そうした渦中を乗り越え、集まった人々が、心地よい関係性を少しずつ広げはじめた。移住者が後を絶たない御代田町で、「Romで出会った」というつながりがどんどん増えた。「アトリエが誰かとつながるための窓口として機能している」。雅恵さんは確かな感触を得た。

生産者さんを訪れて旬の食材を仕入れ、アトリエに戻ってお弁当やケータリングの仕込みをするというのが、雅恵さんにとっての日常だ。家からアトリエまではクルマで10分くらい。子どもの習い事などで送り迎えすることも大切な日課のひとつ。もちろん東京にいたころから日々ハンドルは握っていたものの、御代田に来てからというもの、クルマの中で過ごす時間は圧倒的に増えた。

「野菜の直売所に向かう途中にある、視界いっぱいに田んぼが広がる風景が、まさに『身近にある絶景』なんです。浅間サンラインも素敵で。お休みの日は上田方面によく行くんですけど、小諸あたりは起伏があって、見晴らしが最高にいい。標高1000m近くから佐久平の先に八ヶ岳を見渡すような景色がお気に入りです」

「動くことで気を巡らせる」

愛おしい景色の中を、雅恵さんはクルマで駆け巡る。それはまだ見ぬ風景に出会うために必要な過程であると同時に、気の巡りをよくするための大切な行為でもあると、彼女は理解している。

「私、悩んでいたり、モヤモヤしている時にひとつの場所に留まるよりも、いつも動いていたいんです。動けば動くほど周囲にある色々なものが循環して、それがいい形で自分に返って来る感じがするから。“悶々と考え込まないで、行動して気を回せ!”ですね」

移住した当初、雅恵さんは冬に苦痛を感じていた。新緑の時季と対照的に、木々が葉を落として色を失い、景色が茶色く沈む日々が延々と続く日々。けれど自ら東奔西走するうちに、生命力に乏しい風景に潜む冬にしかない美しさがあると気づき始めた。すぐに彼女は、劇的に変化する御代田の春夏秋冬が、この上なく尊いものであると悟った。

新しい季節、「tsubu.」という食堂へ

そして2026年の春。雅恵さんの暮らしは、またひとつ新しい季節を迎えようとしている。

これまで自らの活動の拠点としてきた『atelier Rom』を地域の次の担い手に託し、同じ御代田町内で新たに『tsubu.(粒)』という名の食堂を始めることにした。炊きたての羽釜ごはんを中心に、地域の食材を生かした定食、季節のおかず、スイーツやお茶。日々の食卓が持つあたたかさを、そのまま町の人と分かち合うような場所にする予定だ。

『atelier Rom』はこれまでと変わらず、地域の人が集い、活動を続けていく場所として残される。雅恵さんにとってこのアトリエは、御代田で自分を取り戻し、次の一歩に踏み出すために欠かせない時間と場所だったのだという。

その積み重ねが『tsubu.』という新しい実りを生み出し、町にまたひとつ、暮らしの風景を描き加えていく。

時間割のグラフ

#07吉川雅恵

age43

出身地

埼玉県

現所在地

長野県

職業/肩書き

料理家

現在乗っているクルマ

SUZUKI イグニス

日々の移動手段を教えてください

クルマ

移動時間に何をしていますか?

音楽鑑賞、頭の中の整理

移動時間にどんなことを考えますか?

仕事のこと、家のこと、子供たちのこと
さまざまな物事を色々な角度から考える

移動する時間は自分にとってどんな時間ですか?

頭の中を一度整理できる時間
運転に集中できる
景色を楽しめる

あなたにとって移動とは

自分の気を巡らせるためにもとても大切な時間
まだ見ぬ美しい景色と出会えるかもしれない大事な過程

Photo by Keita Noguchi Text by numa Edit by Naonori Kato Produce by Ryo Muramatsu

Share on