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2020.11.17

#06 《50MILE》山の扉をひらいた原点
by Eriko Nemoto from Japan

東京を拠点に活動するフォトグラファー根本絵梨子さんによる、距離にまつわる物語「Story of my mile」の第2回。今回は、ネパール・ヒマラヤ山脈を歩いた「50mile」の山の旅の話。ファッション写真しか撮っていなかった根本さんが、山に魅せられ山の写真を撮るようになるきっかけとなった異国の山、そこに暮らす人々との思い出を振り返る。

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» STORY OF MY MILE

コロナが日本でも流行り、緊急事態宣言が出された春、本当にずっと家に籠もっていた。以前は、時間を見つけては山やどこかへ行っていたので、ゆっくりと家で過ごす時間は新鮮で、料理をしたり植物を育てたり、本を読んだり、家のリノベーションをしたりとやりたいことは案外たくさんあって、「旅に行けなくなってどうしているの?」と聞かれたりもしたが、意外とこの生活は自分に合っているのかも? と思ったりもした。

誰にも会えず、電話で話すだけだったり、ただ会いたい人のことを思うというのも、なんだか1人旅の時と似ていて、いつまでもこの生活ができそうな気さえしていた。

でも、そんなのも終わりがあると心のどこかで思っていたからだった。籠りすぎて膝を痛め、治療のために走り始めたのだが、 5月には月150kmも走り、せいぜい半径5kmの生活に息苦しさを感じたのか、山も走れるような自転車も買った。

無意識に自然を求めていた。

ファッションから、山へ。転機になった旅

そしてここ数年撮ってきた山の写真を広げ整理をしたり、写真をSNSにあげたりし始めたのだけど、思った以上に写真を見て楽しんでくれた人も多く、何より自分が癒された。

数が集まったら展示でもしたいと思っていたけど、気づけば1年の1/4くらい山や自然の中で生活するほどで、山の話も写真も溜まりに溜まっている。もう山や自然の中にいることが生活の一部になってきていたんだなあと気付かされた。

写真を見ながら振り返ってみると、ファッション写真しか撮っていなかった私がそんなふうに山や旅の写真も撮るようになったきっかけは3年前の白馬山荘での生活とネパールのヒマラヤ山脈への旅だった。

山の写真を暗室で自らプリントするようになったのもこの頃から。人やファッションの写真、様々なジャンルの写真を撮ることに対して分け隔てなく、自然に身を任せて撮るように変化したのも山の写真を撮るようになってからだ。

山の魅力にどっぷり浸かるきっかけ、自分の変化のきっかけのひとつになった初めての海外トレッキング、ネパールのランタン谷沿いを歩いた50mileの旅を、今回は書こうと思う。

この旅には、山に夢中になるきっかけを作ってくれた幼馴染を誘った。私は、ガイドやポーターや交通手段探しのため2日ほど先に首都のカトマンズに入った。空港に着いた途端タクシーの客待ちに捕まってしまったけれど、話していると彼が新しいツアー会社を立ち上げて頑張っているとのこと。ちょっと無理のある私たちのスケジュールも上手く組み直してくれ、いくつかツアー会社を回るつもりだったけれど、ラッキーな事にあっさりと決まってしまった。

友人が来るまでカトマンズの街を回る。この頃空海の本を読んでいた私はチベット仏教の聖地であるボダナートへ。熱心に祈りながら時計回りに塔の周りを回る仏教徒達。塔はストゥーパと呼ばれ、地・水・火・風・空という宇宙の五大エネルギーを表しているとのこと。宗教も自然が深く関係している。

旅の日程 [標高]
1日目:カトマンズ→シャブルベシ [1,492m] (クルマ移動)
2日目:トレッキング開始 シャブルベシ1,492m→ラマホテル[2,447m]
3日目:ラマホテル[2,447m]→ ランタン村[3,500m]
4日目:ランタン村[3,500m]→キャンジンゴンパ [3,800m]
(高度順応のためキャンジンリ4600mまで登る)
5日目:キャンジンゴンパ[3,800m]→ツェルコリ [4,985m]→キャンジンゴンパ[3,800m]
6日目:キャンジンゴンパ[3,800m]→ラマホテル[2,447m]
7日目:ラマホテル[2,447m]→シャブルベシ[1,492m]

旅の始まり。9時間のダート道をドライブ

ランタンへの旅初日、連絡手段がなく少し不安だった幼馴染ピックアップは、無事完了。帰国後聞いた話では、英語も喋れないし、1人での海外も初めてで現地集合はだいぶ不安だったとそうだ。そんな不安、一言も漏らしていなかったからびっくり! 上手く行って本当に良かった!

ランタン谷への入り口であるシャブルベシまでは9時間ほど崖っぷちのダートの道を走り続ける。9時間、トランポリンの上で飛んでるみたいに激しく揺れる。車酔いを全くしない2人はアトラクションのように笑って乗り切ったけど、トレッキングより難関かもしれない。そして一歩間違えればはるか谷底へ落ちてしまう。登山より危険に感じる。
予定より数時間遅れで登山口のシャブルベシに到着。ガイドのブッディーは、地震(2015年にランタンで大きな被害があった)以来初めて来たそうで、思った以上に道が悪くて驚いていた。

小さな村々でチャイを飲みながら、トレッキング

2日目からトレッキング開始、1、2時間毎に小さな村が現れて毎回小屋で休憩を取った。かまどが火の元。台所の近くは暖かいので毎度お邪魔した。日本も祖父母の時代はこんな風景だったのかなと想像する。初めてきた国なのに懐かしく感じ、とても落ち着いた。

そして、休憩の度にチャイを飲んだ。毎回飲むから水筒のお水はほとんど減らない。初めての4,000mを超える山歩きだったので、高山病にならないか心配だったけれど、チャイで水分をたっぷり取っていたからか2人ともずっと絶好調だった。その土地でずっと根付いている習慣に従うのが一番いいのかもしれない。

ずっと森の中を歩いていて想像していたヒマラヤの白い山々は全く見えなかった。1,000mずつ高度を上げるので割と楽で余裕もあったのでブッディーにもう少し先の村まで進みたいというも、ニコニコ優しく笑いながら「大丈夫大丈夫」と言って受け入れてもらえない。

3日目 やっと想像していたヒマラヤの白い山々が見えてきた! 初めて目の前にする6〜7,000m。まだまだこれから見えてくるというのに、嬉しくてシャッターを何度も切ってしまう。

1日のなかで大体3度目くらいの休憩でお昼を取った。ここは小屋も立派でシーズンは団体ツアー客も世界中から来るのだろうが、同じタイミングで歩いている人は私たちを含めて10人くらいしかおらず、大抵小屋も宿も貸し切り状態。地震で村が無くなったり道が崩れたりしたことで、ランタン方面に来る人が減ってしまったのも影響しているようだった。やっと歩けるようになった頃だったと後で知った。

訪れる人が少ないものだからご飯も頼んでから準備が始まる。私は大体ダルバートという豆スープの定食か、野菜が具材のモモという蒸し餃子を頼んだ。

注文するとまず付け合わせの野菜を畑から取ってくるところから始まり、圧力鍋でご飯を炊く。
モモの場合は生地を練るところから始まる。他にお客さんもいないので、台所で暖を取りながらそんな風景を眺めて1時間くらい(時計も見ないので大体の感覚で)するとご飯が食べられる。とれたての食材で作ってもらう料理、とても贅沢な時間に感じられた。

自然と共に生きる人々。村の再生

お昼休憩の後しばらく歩くと土砂が広がる土地が目に入った。

ブッディーが「この土砂の下にランタン村と村の人たちと世界中からきた登山客が埋まってしまった」と教えてくれた。2年前の地震で氷河が崩れて雪崩れ込んで一瞬にして村ごと飲み込んでしまったのだ。今は氷が溶けて土砂になっている。今までの平和な山歩きで忘れかけていたけれど、自然の力には敵わない、危険な面も隣り合わせなのだと気付かされる。

土砂の上を歩くのは辛かった。でも歩くしかない。1匹の犬がずっと案内してくれて心が和んだ。そんなランタンの悲惨な姿の上に、新しく小屋が数件建っていた。場所は少し上流に移動して新しいランタン村が再生していた。

ブッディーは地震が起こる前にランタンにもよくガイドとして来ていたそうで、通り道の村でも友人と楽しそうに談笑していたが、ランタン村で泊まった宿の主人とは会った途端ただただ黙って熱く握手を交わしていた。生きているかどうか、この日会うまで知らなかったと後で話してくれた。ご主人はその日たまたま下の村にいて助かったということだった。

ランタンを出発するとどんどんヒマラヤらしい景色になってくる。氷河など、日本にはない風景を見て感動しながら歩くも、6,000m以上の山々に囲まれているわりに想像していたより見上げない印象なのは、歩いているところが3,000m以上だからなのかと気づく。日本で3,000mの山々を見ている時と見上げる目線が似ていた。(日本で言ったら富士山の上を歩いている標高にいるのだ)

キャンジンゴンパの村は3,500m。富士山の上にいるようなもの。ここまでくると酸素が薄くなっている感じがある。村の小屋はどれも新しく、建てている途中のものも多かった。

なんと地震の際にランタンを襲った氷河の爆風で、キャンジンゴンパの小屋もほぼ全壊だったそうだ。爆風の威力が想像を超えている。向かいの山の斜面の木々が、全部同じ方向に倒れていて不思議だなと思っていたものも全部爆風によるものだった。絶望的な状況だっただろう。でも皆前を向いて進んでいた。

初めての4,000m越え

キャンジンゴンパに到着すると、次の日のツェルコリ4,985mに向けてキャンジンリ4,600mまで高度順応のために登った。最初の2、3日は余裕だなんて思っていたけど、初めての4000m越え(もしかすると初めての3,000m越え)は荷物をほとんど持っていなくても息が切れて足が重い。

そしてキャンジンリに到着。小屋から800mアップ。今でさえなかなかの登りだったなと思うけど、酸素が薄かったからなのか記憶は少し薄い。ただ周りの壮大な景色には圧倒された。人生初めての4,000mの景色。

後ろから登って来たおじいさん、カメラを持つ手は物凄く震えていて大丈夫かなと心配していたけれど、私たちより早い下山。山に登り続けたらあんなふうに元気にいられるのなら私も歩き続けたい!

キャンジンゴンパまでくると、ポーターの人たちはしばし休暇になる。皆5、60kgは背負っていた。試しに私たちも背負わせてもらったけど、数歩歩くのがやっとだった。ブッディーも若い時はポーターをやり、その後シェフに昇格し、最終的にガイドになったそうで、なかなか下積みの長い世界である。

色々な動物が放し飼いされている。ヤクは乳や糞をストーブの燃料として、馬はやロバは荷物運び、として飼われている。すごい景色の中で生きている。

ツェルコリ 4,985mに登る朝。1,000m以上のアップダウン。初めての高地登山、高山病にならないかずっと不安だった。

4,000m付近でも雪はうっすら、日本の感覚で、11月はもっと積もっているものだと思っていた。酸素が薄くて足が重いのでこの日はトレラン用のシューズで登ることにした。息がすぐに切れてしまうので10歩ごとに止まっては息を整える。息が整ってからの最初の2、3歩の体の軽さと頭の冴える感じが気持ち良い。酸素が血管を通って体に行き渡っていくと体が軽くなり、動けるのを体験して、初めて酸素がないと動くことができないのだということを身をもって感じた。8,000mを登るときなんてどれだけ体が重いのだろう。

酸素が薄かったせいか少し記憶は薄い頂上。見たことのないほどの迫力のある山々に360度囲まれていた。空気が薄くて空の青が濃い。宇宙に近づいていると感じる。チベット仏教で宇宙が出てくるのもこの環境にくると少し分かる気がする。

山が、「登る場所」から「旅をする場所」になった

途中抜きつ抜かれつ、お互い声を掛け合っていたヨーロッパから来たトレッカーの彼ら。11月下旬、5,000m近く、もっと寒いと思っていたけれど、風さえさければ昼寝もできてしまいそうなほど暖かかった。

出発時間や歩くスピードが違っても1日に歩く距離はだいたい同じなので、数日経つとトレッキングしている人たちはだいたい顔見知りになる。彼らはヤクのチーズを手に入れて来たようでお裾分けしてくれた。山の中では肉はないので、食べるのはずっと野菜や穀物、タンパク源はバターか卵だったので、貴重なタンパク源であるチーズはありがたい。

特にヤクは食べ物、燃料、ウールを与えてくれるとても大切な生き物。少し山にいるだけでもヤクは尊く感じるほどの存在。

ガイドのブッディーはお散歩みたいに後ろで手を組んでニコニコしながら登っていた。全く息も切れない。6,000m以下の山は名前も無い世界。かっこいい頂を見つけては山の名前を尋ねたけど、どれも帰ってくる返事は、「ただの丘だよ」。

私たちが息を切らしながら登った山もブッディーにとっては丘、体の作りの違いを感じながら、こんな高地でも同じように暮らしていけるということ、人間の広い適応力と住む環境でこんなにも差があるのかと、ただただ驚く。

帰りはローカルのバスでカトマンズまで8時間の予定。「DELUXE」と書かれたバスはWiFiやエアコンのマークが描かれているけど、実際はバスの通路の床にも運転席の横にも10人くらい詰め込む無理矢理なスタイル。「パンクしたり荷物紛失とかのハプニングに遭遇した話を見たけど無事に着くといいね」と、幼馴染がどこかで仕入れた情報を教えてくれた。その数時間後、トレッキング客のバックパックがバスの天井からどこかで落ちてしまい探しに戻っている間、山の中で数時間皆で待ったり、乗客が喧嘩をしたり、パンクしたり、サイドミラーが割れたり、途中で取り付けたサイドミラーがまた落ちたりと、聞いていたハプニングは一通り網羅して5時間ほど遅れてカトマンズに無事(?)到着し、私たちのランタン谷の旅は終わったのだった。

こんな高地にも、ヒマラヤにも、行くなんて考えてもいなかった。ガイドのブッディーのアシストのおかげで高山病にもならず、初めて5,000m近くまで登り、約50mile とそれまでで一番長く歩いた山行ではあったけれど、山に登ったことよりもその途中の過程の記憶の方が圧倒的に強く、山に登ったというより、村を転々とつないで歩いて「旅をした」という感覚の方が大きかった。この旅から私の中で山が「登るための場所」というより旅をする場所になったのだった。

最後の夜に遠慮がちなブッディーとポーターのダンディにビールを注ぎながらネパールやチベットの山や旅の話を聞いた。壁にかかっていた格好のいい山はカイラス山だと教えてもらう。いろいろな宗教の聖地の山。次はここへ一緒に行ってねとブッディーと約束した。またランタンの村にも戻ってきたいと思った。

いつ行けるだろうか。わからなくなってしまったけど、山も道も日本にもあるぞ。地図を引っ張り出して聞いたこともないルートを探し、また旅をしよう。山も街も道を歩けば旅ができる。

そうやってまたカメラを持って日本の山を歩いている。

今の私の原点と言える過去の旅がまた私を動かしたのだった。

根本絵梨子
Photographer
2010-2011年 渡豪
2012年 都内スタジオ勤務
2014年 都内にてアシスタント
2016年 フリーランスで活動開始

HP :erikonemoto.com
Instagram :@neeemooo

Photo & Text by Eriko Nemoto