Column2026.05.29 [PROMOTION]

COLUMN #01 | 「女性解放運動」を進めた自転車

「Bicycle as Freedom」では、narifuriとともに、自転車と自由の関係をあらためて考えていく。欧米の女性解放運動から現代のストリートまで、ペダルを踏むことはいつも、ささやかな「NO」を含んだ行為でもあった。この連載では、コラムとスナップを行き来しながら、自転車に乗る時間を通して、僕らはどんな「自由」に近づいているのか。ゆっくりと言葉にしていきたい。

Bicycle as Freedom | 記事一覧


西洋の「自由」と東洋の「自由」

なぜ自転車が好きなのですか? という問いに対して「それが自由をもたらすから」という答えが欧米ではすごく多い。欧米人の語り手にとっては『自転車=自由』という絶対的な図式があるようなのだ。翻って、日本では自転車と自由を結びつけて語られることはそこまで多くないと日々感じている。これは、日本語の「自由」がもともと仏教に由来し、自らに由る(じらによる)」、つまり何ものにもとらわれず、外の環境や欲望に振り回されない「自己の確立」を指していたこととも、どこかで関係しているのかもしれない。

日本で暮らす僕らは、この欧米的な「ある制約の外へ出ていくことで得られる自由」と、仏教に根ざした「何ものにもとらわれない自由」という2つのレイヤーを、無意識のうちに行き来しながら生きている。自転車と自由の関係を考えるときも、きっとその2つの意味が折り重なっているのではないか、とぼんやり考えていた。

日本の自転車観についてはまた改めて議題にするとして、ここでは欧米人が抱く「自転車=自由」という絶対的な図式について考えてみたい。その鍵は、18世紀末以降の女性解放運動と、それを後押しした服飾改革にある。封建的な固定観念を切り裂いていく時代の空気と、「新しい視野」を人々に与えた自転車は、必然的に強く結びついていった。

コルセットを脱ぎ、ペダルを踏んだ女性たちが手に入れたもの

19世紀の初頭に誕生し、1世紀をかけて現在の形へと進化し民衆の乗り物となった自転車。その本質は、個人が自分の意志でこれまで考えられなかった広範囲を移動できるようになった移動革命だった。自転車に乗る時間は個人に属し、サドルの上で知覚する速度や景色はどこまでも個人的な体験であり視野である。自転車は社会における個人のあり方を深化させたと言っていい。そこには男女の差はない。近代人という名の個人がよりその度合いを深めただけだ。

しかし自転車は、現在でもある程度はそうであるように、着る服を選ぶ乗り物だ。そしてこの「制約」が、翻って女性に自由をもたらすことになる。女性が多く自転車に乗るようになった19世紀後半、ヨーロッパの女性たちに流行していたファッションは身体を締め付けるコルセット。その流行には、女性の身動きを不自由にするという家父長的な目的も隠されていたと言われる。それに付属する鯨骨を用いた放射型のスカートは、おおよそ自転車に乗るのに向くものではなかった。

自転車に乗るためには、サドルに跨るためにはコルセットを脱ぐ必要があった。それは封建的な家庭や社会制度からの離脱を意味した。そして一度自転車に乗れば、自分の力で、自分の意思で行きたいところに行けるようになった。

自転車は二重の意味で女性に自由をもたらしたのだった。

忘れてならないのが、女性の服装と自転車とを結びつけた重要人物、アメリア・ブルーマーの存在だ。19世紀半ば、彼女は自身が編集していた新聞『ザ・リリー』を通じて、コルセットと裾の重いスカートに代わる「合理的な服装」を提案した。そのゆったりとしたズボン型の衣服はやがて「ブルーマー」と呼ばれるように。それは女性の身体を締め付けていたドレスコードへの反抗であると同時に「自分の足でどこへでも行ける」新しい自由のためのユニフォームでもあった。

“女は自転車に乗って選挙権を獲りにゆく”が生まれた背景

この話は、欧米では自転車の歴史を語るうえで欠かせないエピソードである。

女性解放運動を推進したスーザン・B・アンソニーが自転車について「世界のいかなるものよりも女性の解放に大きく貢献してきた」と語ったことや、女性参政権活動家のエリザベス・キャディ・スタントンの「女は自転車に乗って選挙権を獲りにゆく」といった言葉は、広く知られている。

自由は制約のあるところにしか存在しない。そしてその制約を打ち破って、主体的に獲得していくものが欧米における自由である(前述のキャディ・スタントンの『獲りにゆく』という発言はまさにこのことを示している)。大著「自転車 人類を変えた発明の200年」(左右社)の著者ジュディ・ローゼンは、今日も自転車の使用を禁じられた権威主義国家の女性の例を挙げて、「世界の数多くの女性にとって、自転車に乗ることは今もなお本質的に政治的な行為であり、不服従の行動であり、自分のリスクを引き換えにした自由の主張で有り続けている」と、女性における自転車と自由の関係を表現している。

「自転車は自由な乗り物だから好き」と人が口にする時、その背後には、何かしらの制約を打ち破らんとする強い意志があるのかもしれない。少なくとも、欧米の文脈ではずっとそうであったし、今も世界のどこかで、そのペダルは小さな「NO」を言い続けている。

一方で、日本的な自由は自分の内側に拠りどころを見出すあり方だった。つまり自由とは、外の制約を打ち破ることと同時に、内側の心地よさを追い求めていくことでもある。

Bicycle as Freedomという連載では、常にそのことを覚えていたいと思う。


小俣雄風太 (おまたゆふた)
自転車ジャーナリスト、編集者。国内外の自転車にまつわるイベントを取材。自転車を「その土地の文化を知り、体感するツール」に位置づけ、欧州ロードレース実況から小径車のサイクリングまで広範な発信に務めている。著書に「旅するツール・ド・フランス」(太田出版)。J SPORTSではレース実況も務める。サイクリングポッドキャスト&編集室のArenbergを主宰。
IG:@yufta

visual by Hikari Tamahashi / text by Yufta Omata / edit by Ryo Muramatsu / promotion by narifuri

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