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写真家が移動できなくなったとき #04
2020.10.19

写真家が移動できなくなったとき #04
by 山内悠

八ヶ岳山麓に拠点を構える写真家、山内悠さんは数年間、一年の半分近くを旅しながら暮らしてきた。写真集『夜明け』に結実した富士山の山小屋での生活は今も続け、新作『惑星』として発表されたばかりのモンゴル行には、年に2ヶ月を費やしていた。数年来継続していたプロジェクトが終盤に差し掛かったタイミングで、今年の春を迎えた。そのために、旅する写真家は、長くステイホームしていた時間を「有意義なもの」として捉えていたという。

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社会から離れること

——今年の春以降、どんな風に暮らしていたのですか?

去年の後半くらいから、ずーっと家にいたんです。なので、今回のコロナ禍でも何も変わらなかった。むしろ、社会が止まるって、「ある側面だけでいえば、こんなに楽なんやなあ」と思いましたね。八ヶ岳の山の中に一人でいて、身体にいいご飯を食べて、ジョギングしたり汗をかいて、ゆっくり2時間かけて風呂に入って。有意義でしょ? 僕個人のことだけでいえば悪いところがない。

今まで自分が山の中に一人でいても、周囲の世界はわしゃわしゃと動いているわけで、その情報やら誘惑やらを完全にシャットアウトはできないから、窮屈に感じる部分があったんですよね。


数年通っている屋久島の風景より

——山内さんの撮影プロジェクト自体も、遠い場所に赴いて、社会から離れるものがほとんどのように思います。

楽なんですよ。携帯が繋がらない場所に3週間とか。毎年、屋久島の森の中に1ヶ月近く滞在しているんですが、人があまり来ない場所にテント張ったり、避難小屋を拠点にしてウロウロしてます。森の中をたくさん歩いて汗かいて、川にバーンと飛び込んでサッパリして、10時間くらい熟睡してる(笑)。その充実感というか、心が満ちていく感じがまあ、とても有意義で。

富士山の山小屋も昔は電波が届かなくて、その社会の動きから完全に外れた感じが楽やなあって。今の家も山の中やけど、光回線引いてるし、情報は嫌と言うほど入ってくる。今までは何にストレス感じていたのかわかんなかったけど、社会がめまぐるしく動いていたってことが、今回よくわかって、それが止まるとこんなに楽なんやと。

——今回のステイホーム期間中にも、富士山の山小屋に篭っていたと聞きました。

山小屋にも修理の手伝いに行っていたんです。聖徳太子が登った記録すらある富士登山の歴史。その中でも多分初めてだと言っていましたね、全面入山禁止なんて。第二次世界大戦の時でも富士登山やっていたのに。人が全然いない状況が初めてで、そうしたら山は前も後も静かやなと思ったんです。

6合目の辺りにカモシカが出たり、自然が戻ってきてる。人がいる時には行かんようにしている昔の道なんかをウロウロして、やっぱりよかったですよね。雲海で街が見えなくなれば 、完全なディスタンスだし、いい体験をさせてもらいました。ただ、こんな機会ないからって、めちゃくちゃ山小屋の修繕の大工仕事をしましたけど(笑)。

写真集『惑星』(2020)より

5年をかけて撮影したモンゴルの風景

——モンゴルの遊牧民も、実は携帯電話を持っていたり、社会と断絶して生きているわけでは無く、自分たちの遊牧民としての暮らしと、都会的な暮らしとを比べて、何を取り入れて何を変えないのか、自分たちで選択しながら暮らしていると。

そう。モンゴルが面白いのは、例えば遊牧民の人たちはその家族が持っている家畜だけで、完結できるんです。経済依存もない。まあ、経済に関わろうと思えば、誰でも羊毛を売ることはできる。でも、家族単位だけでずっと昔から続けてきた、形が出来上がってる暮らし方があって、他者と自分たちとの関わりがほぼ関係ない状況なんです。遊牧民として暮らそうと思えば、我々とはまったく違う世界で生きていけるし、街に行こうと思ったらそれも選べる。それでもずっと続いている遊牧民の暮らしを選ぶっていう選択はすごいなと思いましたね。
 
僕自身は写真をやっていて、写真を見せてお金を得なきゃ生きていけなくて、どれだけ自分を隔離しようと社会から離れていっても、関わらざるをえない。

——選択肢が少ないように思える彼らの方が、実は選ぶことができている。

生きるための手段がいっぱいあるというか。本当に大変な方もいらっしゃるから、あんまり大きな声では言えないですけど、ある意味でこのグローバリズムが止まるような状況は“面白い”ですよね。今までの価値観が変わるだろうし、その変化を見ることができるのはとても興味深いことだと思ってます。遠く離れたモンゴルの遊牧民の暮らしを見に行って、「ああ、こんな価値観なんや」って思っていたような感覚が、これからは身近に起きてくるんじゃないかと。既存の文明やら文化やらいろんな国に行って探してきたものを、今、これだけ変化している世の中で、ただ自らが作っていけばいいんじゃないかって気がしてるんですよね。

写真集『惑星』(2020)より

——もう遠い世界に旅をする必要もない?

屋久島に数年通っていたプロジェクトをもうすぐ終わらせられるんで、そういったものを全部手放して新しい時代を迎え入れた方がいいなとさえ思ってます。これまでは極地に身を置く事で、自然や世界の事を知ろうと旅を続けて来たけど、今はまさにこの事態が自然や世界の事を僕達に問いかけていると思います。そして、写真はやればやるほど過去への執着が産まれていく。もう、勘弁してください……と思って写真撮ってるし!(笑)。

世界ってなんやろな、光ってなんやろなと写真を通して世界の探求を続ければ続けるほど、写真の行為そのものが逆行していると思ってる。解脱とはほど遠い行為だなと。けど、写真という物質でしか見れない世界の真理があって、それを見れた時はすごく上がります(笑)。その矛盾がまた世界というのを問いかけられるというか。

写真集『夜明け』(2010)より

富士山で過ごしていた時に、自分が宇宙の一部であることに気づいたのが、今も続く旅の始まりというか。あんまり言ってないけど、スピリチュアル的な体験もいっぱいして、一体感というか全体感というか、光に溶け込むような覚醒体験みたいなものがあったんです。自分はこの絶対的な世界に繋がっていてその端くれみたいな所に意識として存在していた、みたいな感覚を得られたんです。その全体感みたいな所から、なぜ我々の意識は離れてしまうかといえば、宗教的に見ると、煩悩であったりカルマだったり、アダムとイブの原罪とかに起因してくる。そうやって知識や情報としてはわかっているけれど、宇宙や自然との一体感をもう一度味わいたいと思ってるところが結構強くて。最初は、屋久島にそれを体験しに行こうと思っていたんです。

だけど、自然の中にいて有意義な時間を過ごす反面、不安とか恐怖とか、真逆の感情が湧いてきて、自然との信頼関係が築けなかったりもする。

そういう対極的な部分を人は持ち合わせていて、だからこそ逆説的に有意義な感覚が生まれたりもする。そのネガティブな面って全人類が持ち合わせているから、自然から離れて街を作ったりするわけですよね。僕は、その相反する感覚みたいなものを旅しながら探りに行っていたのかもしれない。そして、僕たちの現実は、それ故に相対的に形成され、それぞれの場所や地域で細分化されて行くようにも思えます。

そんな中で出会った遊牧民には、その相反する概念がないのかもって、ちょっと思いましたね。彼らには毎日の心配もないし、意識の在り方がまるで楽園のようだなと。そして、それが光景にすべて現れていたし、さらに写真が嘘のような楽園を見せてくれたのです。

モンゴルではこの無数に細分化された意識の現れの極端な形を見た気がします。しかも時空を超えて(笑)。

写真集『惑星』(2020)より

写真が生み出す“過去への執着”

——矛盾する感情の在り処を探りに行くためのツールとして、カメラがあるのですか?

屋久島の山の中に入って3日目に、転んで、全部のカメラが壊れたことがあるんですよ。それで山を降りるのかと自問自答した時に、結局3週間分の食料もあるし、自分は体験をしに来ているんだから、それを遂行しようと。写真を撮らなくてもいいってなったら、もう、なんだか楽でしたね(笑)。「全体感、一体感」と、写真を撮ることへの執着って真逆のベクトルですからね。

ただ、写真を撮るという行為は、目の前にある現実的な世界と向き合うためには必要なんです。それから、実際に恐怖や不安を感じた時に、自分の心の拠り所のように依存もしている。僕は森の中で自分の居心地のいい場所を見つけてしまうから、現実と向き合っている自分にピントを合わせるために写真を撮っている部分もある。結局、その行為が物質化されるのが一番いけないのかもしれない。だからインスタのストーリーズみたいに流れて消えてしまえばいいとも思ったりします(笑)。

——世界と自分が繋がっているためのツールとして、カメラがあるんですか?

そうそう。自分が立っている現在を理解するためのツールであるのに、過去への執着にもなってしまうという。
やばないっすか(笑)。
 
けど、展覧会では写真を一つの空間として作り上げると、そこには僕の体験が持ち帰った波動のハーモニーみたいなものが生まれます。わかりやすく言ったら僕の体験を追体験できるようなアトラクションみたいな感覚を作れると思うんですよ。自分との関係性においては、その写真を撮るという行為にまつわる「問答」が多くなりすぎてしまうけどね(笑)。

先日まで札幌のモエレ沼公園で、モンゴルでの旅を現した『惑星』の展示していたんですが、あそこは、もともとはゴミを埋め立てる場所だったんですよね。ゴミが大地のベースになって、その上に聖地を思わせる山やピラミッドなどの未来建築が建っている…しかも北海道は、明治以降の移民政策によって原始的な世界に文化が移植されて作られている部分もある。そういった人間と自然との関わりの重なりや在り方、時間軸と暮らしのレイヤーのようなものが今回の作品のポイントでもあるので、アプローチとしていいなと思ったんです。

写真集『惑星』(2020)より

遊牧民は何千年も変わらない暮らしを続けていて、しかもこの先にも同じ暮らしを選び続けていくように見える。そこに流れている時間と、人が幾重にも重なってぐるぐると思考が回って、それをエネルギーとして目まぐるしく変わっていくウランバートルの街とでは、時間の概念が全然、違うんですよ。そんなような話を体感してもらう展覧会になりました。

僕の言う全体感、一体感を得るためには、ただ「朝、地球に立っていること」を感じられればよくて、きちんといいものを食べられて、しっかり寝られればそれで良い。それが、自分が存在しているっていうことですから。

でも、自分が生まれてきたことの意味というか、やっている仕事の意味みたいなものも、どうしても考えてしまう。写真はもうご勘弁!と思っていても、そうやって、僕はずっとなんだかんだ言いつつもワクワクしながら問答を繰り返しているんです、今のところ(笑)。 

山内 悠
1977年、兵庫県生まれ。長野県を拠点に国内外で作品を発表している。独学で写真をはじめ、スタジオフォボスを経て、富士山七合目にある山小屋・大陽館の滞在中に撮り続けた作品をまとめた写真集『夜明け』(赤々舎)を2010年に発表。2014年には、大陽館の主に焦点をあてた山小屋での日々を著した書籍『雲の上に住む人』(静山社)を刊行。2020年、モンゴルで5年をかけて撮影した写真を収録した『惑星』を青幻舎より出版する。
www.yuyamauchi.com

Photo by Yu Yamauchi Text by Toshiya Muraoka