国土をつなぐ移動祝祭
今日、沿道でその一団に遭遇したとしても、あなたはほとんど何も覚えていないかもしれない。あまりに速く、つむじ風のように一瞬で通過していったのは、ツール・ド・フランスの一団だ。そこを走っていた200名近い選手たちは、高度に鍛錬され極限まで絞り込まれた肉体を持つエリートアスリートで、乗る自転車は一台200万円はくだらない最新鋭のカーボン製ロードバイクである。
もちろん、ここ日本でツールの一団と遭遇することはない。しかしフランスに生まれたら、一生のうちに何度かは一団が近所を通るというので、家族や友人と観に行くことになる。7月、フランス全土を巡るツールは、多くのフランス人にとって夏の風物詩であり、原体験である。日本の夏が甲子園であるように、フランスの夏はツールなのだ。
驚くべきは、この自転車レースがもう120年以上も開催されていることだ。しかし当然のことながら、その初回は今日のプロフェッショナルスポーツとはずいぶんと趣が異なっていた。記念すべき初めてのツールは1903年。6日でフランス一周2428kmを走るという途方もない冒険のスタートを切ったのは59人の猛者だった。
この当時すでに自転車ロードレースは確立され、1日で600kmを走るびっくり人間コンテストの様相を呈していたが、それが連続し、のべ6日間の合計タイムで競うというのは並外れたコンセプトだった。80人がエントリーしたが、スタートしたのは59人、そして完走したのは21人に過ぎなかった。
ツール・ド・フランスは、かつては国土の外周をなぞる「フランス一周」として始まったが、戦後に国境をまたぐステージや新しい土地を積極的に取り入れるようになり、毎年ルートが見直される現在のかたちへと変化した。いまでは固定された周回ではなく、その年ごとにコースが異なる “移動祝祭”として、フランス各地と周辺国を結んでいる。
職無し人間たちの戦い
街から街へ走る自転車ロードレースは1869年に開催され、この1903年に完成をみた。それは単に街と街をつなぐことに留まらず、国をひと繋ぎにするという移動の物語だった。当時すでに鉄道は敷設され各地へ拡がっていたが、中央集権の国フランスのこと、その鉄道はパリから放射状に伸びるばかりで、地方間の移動には適していなかった。ツールの指揮官だったアンリ・デグランジュが第1回ツールの初日に宛て書いたステートメントにはいみじくもこうあった。
「残念ながら、パリは依然として巨大なタコであり、その恐ろしい触手がすべてを吸い上げ、その専制的な権力は共有を許さない」
デグランジュの意図は、フランスの各地方を結びつけることにあった。当時の最新機器である自転車が、そして驚異的に頑丈な身体をもった21名が、初めて徒歩以上の速度でフランスを一周した。それは人間が初めて得る類の知覚であり旅だった。己が国にあって誰も見たことのない世界を、勇敢な21名の自転車乗りは目にしたのだ。
この第1回大会も終盤になると、各地の沿道は選手を讃えようと人で溢れた。かようにツールが大成功を収めたのは、その革新的なコンセプトや新聞社主導のメディア戦略によるところが大きいが、それと同じくらい、当時の人々は、見たことのない世界からやって来て、見たことのない世界を見てきたこの男たちに心酔したのだ。彼らの到着が、新しい時代の知覚を運んできたかのように。
1903年のツールで自転車は、新しい世界への扉だった。飛ぶように走る選手を見た者はそれを翼だと言ったかもしれない。
自転車史家のピエール・シャニーは、第1回ツールの参加者を「多かれ少なかれ、職無し人間の悲惨な類型」と書いている。「場末の失業者、田舎からの出稼ぎ、地底から這い上がってきた炭鉱夫、そして一握りの法外さに魅了された狂信者」として、選手に次のようなニックネームを与えている。「指物師のチャンピオン」「サンスの恐るべき肉屋」「炭鉱の王子様」……等々。
しかしツールを走り終えた彼らは国民的英雄になっていた。やっぱり、自転車は新しい世界への扉だったのだ。
小俣雄風太 (おまたゆふた)
自転車ジャーナリスト、編集者。国内外の自転車にまつわるイベントを取材。自転車を「その土地の文化を知り、体感するツール」に位置づけ、欧州ロードレース実況から小径車のサイクリングまで広範な発信に務めている。著書に「旅するツール・ド・フランス」(太田出版)。J SPORTSではレース実況も務める。サイクリングポッドキャスト&編集室のArenbergを主宰。
IG:@yufta
visual by Hikari Tamahashi / text by Yufta Omata / edit by Ryo Muramatsu / promotion by narifuri